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すべてが麻痺していた。
悲しみも。
苦しみも。
喜びも。
楽しさも。
生きている感覚さえも。
すべてが麻痺していて、生きているのか死んでいるのかもわからず、ただ息をしていた。
そのうち息をするのも忘れて、そうして自分の人生は終わるのだと。
誰からも、存在を忘れられて終わるのだと。
そして、自分という人間ははじめから存在していなかったことになるのだと。
そう、思っていた。
ずっと、思っていたのに。
『楽園計画』1
既に暗くなり始めた道を、男は一人、俯き気味に歩いていた。癖のない黒髪に、中肉中背。眼鏡の奥にある目は、髪と同色で、ややつり上がっている。
背中には中くらいの地味な色合いの鞄を背負い、左手には買い物袋を提げている。服装も、シャツにジーパンというこれまた地味なもので、すれ違ってもすぐに忘れてしまいそうな印象の薄さだ。ただ、その「薄さ」を一転して濃くする要素が男にはあった。それが、右手についた杖と、引きずるようにして歩く右足だ。
カツン、カツンと杖を鳴らしながら、石畳を歩く。階段に差し掛かった所で、後ろから歩いてきた女が「荷物、持ちますよ」と笑顔で声をかけてきた。しかし男は、それをちらりとも見ずに無視し、一人で階段を昇り始めた。善意の空回りした女は、不愉快そうに鼻を鳴らして、足早に男を追い抜いて行った。
男はゆっくりと階段を昇り終えると、そのまま細い路地へと入っていく。2階建て以上の高い建物に囲まれた路地は薄暗く、やや汚い。スラムとまではいかないものの、裕福ではない層が住んでいることが、空気からわかる。
男は路地の一角で足を止めた。古い集合住宅――そこの一階が、男の部屋になっている。だがその部屋へと続くはずの扉の前に、見知らぬ人間が一人、腰掛けていた。
その人間は、入院患者が抜けだしてきたような検査着姿で、袖口や襟からは包帯がのぞいていた。暗がりに浮き上がるように青白い肌は、いかにも不健康そうだ。駄目押しとばかりに、両目の下には大きな隈がくっきりと浮かんでいる。ひどく細く華奢そうに見えるが、顔立ちや骨格からして、男だということがわかる。年齢は二十歳前後か? 正確にはわからないながらも、そう自分と大差ないだろうと判断する。
「それ」は、男が自分を見ていることに気が付くとゆっくり顔を上げ、そしてにこりと微笑みかけてきた。
(なんだ、こいつ……)
気味が悪い。何故、自分の家の前に腰かけているのか。問い詰めたい気持ちが湧くが、それ以上に関わり合いになりたくなく、男はその横を素通りして家の中に入ろうとした。
その足が、不意に引っ張られる。
「………」
男は、ちらりと傍らの存在を見遣った。「それ」は嬉しそうに笑みを深くする。
「フジ」
「………」
「それ」が自分の名前を呼んだことに、男――藤は、表情は変えないながらも、胸中では少なからず驚いた。元来知り合いが多い方ですらない自分のことを、何故見知らぬ男が知っているのか。やや警戒しながら、藤はゆっくり口を開いた。
「……何、あんた」
「それ」は、一瞬何を言われたのか解らないようだった。首を軽く傾げて、「だれ?」と、かえって疑問形を呟く。「誰か」ではなく「何か」と問われたことが気になったのだろうか。やや苛立ちを覚えながら「そんなのどうでもいいだろう」と藤は切って捨てる。
「誰かとか、そういう問題じゃない。何なんだよ、一体。何で俺の家の前に居て、ヒトが入るのを邪魔すんだよ。放せ」
だが「それ」は、藤のささくれ立った言葉を露ほどにも気にしていないのか、再びにこりと微笑んだ。
「トーヤは、フジに会いにきたんだよ」
トーヤ、というのが「それ」の名前なのだろう。どうでもいい情報だ、と心の中で吐き捨て、藤はトーヤを睨みながら、努めて淡々とした口調で言う。
「じゃあ、会ったな。放せさようなら」
「……? トーヤとフジは、さよならしないよ。一緒にいる」
わざとなのか、元々こういう話し方なのか、トーヤはたどたどしい調子で勝手な予定を述べながらにこりと笑った。
奥歯を噛む。この男は、一体何のつもりで初対面の相手にこんなことを言っているのだろうか。怪しいというより、むしろ得体が知れず、若干の不気味さも覚える。
「……意味、わかんねぇ。さっさと消えろ電波。二度と顔出すな阿呆」
無表情に、そう言い放つ。いい加減、家の中に入り、一人になりたかった。本来なら力づくでも、服をつかんでくる手を振り払いたかったが、相手がどういう人間かもわからず――更に言うならばどんな危険物を所持しているかもわからず、ぐっと堪える。尤も、同年代の同性と比べてひ弱な部類である自分が力技でどこまで対処できるか自体、甚だ疑問ではあるが、それは目の前のトーヤとかいう男も同様のように見える。
そのトーヤはと言えば、自分に向けられた言葉をどう受け止めるものか迷っているようだった。ゆっくり大きく首を傾げ、そしてややしてから自分の襟を片方の手で持ち上げだす。一瞬、何をし始めたのかさっぱりわからなかったが、その必死そうな様子から、ややして、相手が文字通り顔を出さないようにしようとしていることに気が付いた。
「……莫迦か」
そう、苛立ちを隠し切れず呟く。眉を寄せ、
「いい加減、手を放せ」
「……っ」
藤の言葉に、トーヤは身体ごと首を大きく横に振り、拒否を示した。服をつかむ手に力が加わるのが見てわかる。
「……っ、いい加減にしろっ!」
我慢の限界だった。藤は、持っていた杖で無理やりトーヤを押し、手を放させた。ようやく、身体に自由が戻り、ほっとする。トーヤは、体勢を崩してその場でよろけていた。それを横目で確認して、さっさと家の中に入ろうとした――が。
「……っ!?」
全身に圧がかかり、身体を硬直させる。首筋に、熱いものがかかる。検査着から伸びた細い腕が、自分の身体の前面に回っていた。
体勢を戻したトーヤが立ち上り、後ろから抱きついてきたのだと、そこでようやく理解した。理解した途端、背筋を冷たいものが走り抜ける。きっと今の自分は全身鳥肌だらけに違いあるまいと、本能的に理解する。同時に冷や汗も噴き出す。大声で叫びたくなるような衝動を必死に堪えながら相手を振りほどこうとするが、意外にも力が強く、びくともしない。
気持ちが悪い――吐き気がする。
とにかく、この状況をどうにかしたい一心で、藤はよろめきながら、なんとか家の鍵と扉を開けた。相手に気道を塞がれているわけでもないのに、息苦しい。のたのたと歩を進め、扉の中へと向かう。トーヤは、それに反抗するでもなく抱きついたまま一緒についてくる。
もう、それでもいいと、半ば混乱、半ば捨て鉢な気分で、藤は背中にトーヤを貼り付けたまま、家の中へと入って行った。
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そんな出会い編。
初っ端から主人公大混乱です。
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