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心臓が壊れるかと思った。
喉が破れてしまうかと思った。
精神が焼き切れてしまうと思った。
叫んで。叫んで。叫んで。
どうして何故俺の方が君はあいつなんか好きなのに嫌い好き好き好き大好きなのにどうして嫌だ止めてよなんで何故ねぇどうしてどうしてどうして。
不規則に駆け巡る単語の羅列。
唐突に起きた「事実」を、ただ拒否することしかできない。
ねぇ、俺は君を大好きだったよ。
誰よりも、一番、君を好きだったよ。
どうしてわかってくれないの?
どうしてわかってくれなかったの?
ねぇ、どうして……。
どうして……………。
真朱の糸1
時は戦国。
尾張の風雲児が、桶狭間にて東海一の弓取りを討ち取ったり、川中島において龍虎が四度目になる戦を起こしたりするよりも、更に前のこと――。
豪族「神片家」が守護代として実質統治しているその国は、小国ではあるものの、他国からの侵略をなんとか防いでいる、という状況であった。だが国力に差がある国に力のみで対抗し続けることは、この戦国の世にあってほぼ不可能である。そこで神片家当主は、自分の三人の息子のうち一人を、隣国へ人質として送ることを決めた。
「……天津様が出立なされるまで、あと二月ですね」
隣から聞こえてきた声に、緋月は「あ、そう?」とおざなりな返事を返した。床に寝そべり、大きな欠伸をするその表情から、話に全く興味がないことが伺える。実際――緋月は、末の弟が隣国へ行くことも、そこにどんな理由があるのかも、心底どうでもよかった。
腹違いの弟は、いつだっておどおどとしており、とうとう好きになれなかった。きっと、これからもそうだろう。自分が兄弟だと認めるのは、双子の兄であり、いずれ神片家の家督を受け継ぐことになるであろう紅月だけだ。
声の主は、緋月が話題に関心を持っていないことに気づいたのだろう。横目でちらと確認すると、口を閉じ、小さく俯いていた。暗い奴、と緋月は心の中で莫迦にした。
緋月の小姓である彼は、名を晦夜といった。幼い顔立ちをしているが、小姓としてはそろそろ大釜と呼ばれる歳だ。いつも無表情に俯きがちで、人形のような彼を、緋月はどうも好きになれないでいた。別に、嫌っているわけではない。だが、好きでもない。つまり、「どうでもいい」。だがその「どうでもよさ」はある意味居心地がよく、身辺の世話は基本的に彼に任せていた。
緋月にとっては「どうでもいい」彼だが、顔のためか、一部の者からは人気があるらしい。老中の一人からは特に可愛がられており、晦夜もその老中にはよく懐いているようだった。その老中と笑顔で話しているところを、一度見たことがある。
(俺といる時は、いつも無表情のクセに、ね)
だがそれすらもどうでもよかった。
「……っ、よいしょっと」
大きく伸びをしてから、かけ声をかけて立ち上がる。小袖がしわになっていたが、適当に手でのばして誤魔化した。
「そろそろ、戻ってくるかなー」
そう言って庭を見れば、ちょうど話しながらこちらの方へ近づいてくる二人組が見えた。それが誰かを確認し、顔を明るくさせる。
「紅月! 玖彩!!」
庭へ降りようとする緋月に、晦夜が慌てたように履き物を差し出す。それに足をつっかけ、緋月は二人の元へと駆けだした。
二人組も、緋月に気づいたようだった。一方が、「緋月様」と柔らかな微笑みを浮かべる。それに、緋月は思い切り抱きついた。
「おかえりなさい、玖彩! さびしかったー」
「ただいま戻りました、緋月様。申し訳ありません」
そう、優しく答えたのは、望冶玖彩という男だった。神片家にとって有力な家臣である望冶家の長男で、紅月の乳兄弟であり、小姓でもある。自分にとっても、幼い頃からよく知っている、幼なじみのようなものだ。常に、眉が下がってまるで困っているかのような笑みを浮かべていて、それでも時折、心から、本当に嬉しそうな笑みを浮かべる。その顔が、緋月は大好きだった。
「若君」と敬われる紅月と比較して、家臣たちが自分を「莫迦君」と陰で揶揄しているのは知っている。そんな自分を莫迦にしない数少ない人間の一人が、玖彩だ。
それに甘えて、わざと拗ねた素振りで「ひどいよ」と口をとがらせる。
「早駆けに行くときは、俺も一緒に連れてってって、約束したじゃん」
「申し訳ございません、あまりに気持ち良さそうにお休みになってらっしゃったので……」
そう、本当に申し訳なさそうに眉を思い切り下げる玖彩を見、少々の優越感とそれ以上の罰の悪さを覚える。「……ま、いいけど」と引き下がり、話題を変える。
「玖彩も、朝っぱらから早駆けなんかに付き合わされて、タイヘンだよね! ねぇねぇ。やっぱり、紅月じゃなくて俺の小姓になりなってば。そしたら、朝だってゆっくり寝てられるよ? 紅月も、別にいいよねぇ?」
水を向けられた紅月は、困り顔の玖彩にちらりとだけ視線を向けると、「別に、俺はどっちでもいい」と興味なさそうに言う。緋月には、訊く前から紅月の答えはわかりきっていたので、にこりと笑みを玖彩に向ける。常に冷静で真面目な兄は、緋月を莫迦にしない数少ない人間のうちのもう一人だが、妙に冷めたところがある。代わりの人材がいれば、小姓の一人や二人、手放した所でどうとも思わないだろう。
だが問題の玖彩は、主人が「どっちでも」と言ったにも関わらず、「……俺は、若君に仕える者ですから」と困った笑顔のまま答えた。それも、予想していた答えだ。主人と反対に、玖彩は優しく人情深い。そして緋月は、そんな玖彩が好きなのだから、無理強いもできず、「ちぇー」とふてくされるにとどまった。
「……俺は部屋に戻る」
「あ、はい。では、馬を小屋に戻したらお茶をおいれします」
「あぁ」
頷き、紅月は自室の方へと歩いていく。その背を少し見送ってから、「ねぇねぇ」と緋月は二頭の馬を宥める玖彩に声をかけた。
「俺も、手伝っていい? 一緒に馬小屋まで行こうよ」
「でも、お手を煩わせるわけには……」
「いいのいいの。どうせ俺は『莫迦君』なんだから」
そう、けらけらと笑って見せる。――政治に関心がなく、いつもだらしない格好で遊びほうけており、当主の息子としてふさわしくない、と。自分でもそう思うから、気にならない。当主の跡継ぎとしてふさわしいのは紅月であり、自分はそんな座など欲しくもない。莫迦にされるのは癪だが、真面目なふりをするのは面倒だし、まるで周囲のご機嫌とりをするようでそれこそ不愉快だ。
だが、それを聞いた玖彩は珍しく眉を釣り上げながら、「そんなこと、おっしゃるものではありません」と怒りを滲ませた声で言った。
「緋月様は、そんな陰口を叩かれて良い方ではありません。緋月様は、情の深いお方です。だからこそ、若君を立てておられるだけで、能力がないわけでは御座いません。……口さがない者の言にのって、ご自身のことを貶めて言うのはお止めください」
最後の方は、少し悲しげでさえあった。その気迫に押され、思わず「ご、ごめんなさい……」と口ごもりながら謝ってしまう。我に返ったらしい玖彩は、少し後悔した様子だった。俯いて、「いいえ……」とこたえる声も、やや細い。
「……私の方こそ、出すぎた真似を………」
「う、ううん! だって、玖彩は俺のことを大切に思ってくれてるから、そうやって怒ってくれるんでしょ? すごく、嬉しい」
真正面からそう言うと、玖彩は安心したように微笑んだ。緋月もそれにほっとし、手綱の片方を受け取る。「ありがとうございます」と、玖彩が頭を下げた。
本当は、情が深いと言われてもピンとこないし、敢えて紅月を「立てている」つもりもなかったが、悪い気はしなかった。心の底からそう信じているような調子で玖彩が言うものだから、少しその気にさえなってしまう。
「……若君も、貴方のことを、大切に思ってらっしゃいますよ」
馬のペースに合わせて、ゆっくりと歩みを進めながらふと、玖彩が言った。
「う、うん?」
確かに、莫迦にはされていない。同等の者として、自分を扱ってくれるからこそ、あの双子の兄が自分は好きなのだ。だが、大切に思われているとは、考えたことがなかった。
「……あまり、ご自身の感情を露わにするような方ではないので……ですから、誤解されがちですが。
……実を言いますと、今朝、緋月様を早駆けにお誘いに行ったとき、私や晦夜殿は貴方を起こすべきか迷いました。……でも、あの方が、起こすな、と……。早駆けはいつでも一緒にできるのだから、眠りたいときは寝かせてやれ、きっとそれだけ今は疲れているのだから……そう、おっしゃって」
「………ふぅん……」
つまり、それは、紅月が自分に気を遣ってくれた、ということだろうか。
緋月が寝ぎたないのは今に始まったことではない。大抵は、夜遊びが過ぎてのためだ。それを知らない紅月が気遣ってくれたのだったら、それはなんとなく、こそばゆいような感覚がする。
だがそんな気遣い以上に、「いつでも一緒に」という言葉が、緋月には嬉しかった。紅月は、「いつでも」緋月を仲間に混ぜてくれるつもりなのか。確かに、紅月は自分から何かに誘ってくることはないが、緋月の誘いや願いは大抵断らない。だからきっと、緋月が望むのなら、いつだって三人一緒にいられるのだ。
玖彩と、紅月。
その、大好きな二人と「いつでも一緒」にいられる。
それは、緋月にはとても幸せなことで、それだけで、胸が暖かくなる。
ふと玖彩と目が合うと、緋月の機嫌が良いことを察してか、玖彩もにこりと微笑んできた。
幸せだった。
この幸せは、何事にも代え難いとわかっていた。
――そのはず、だった。
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