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藤の部屋は台所にユニットバス、それから5畳程度の座敷がある、非常にシンプルな作りだ。背中に張り付くトーヤを引きずるようにしながらようやく座敷まで辿り着いたときには、背筋を駆ける悪寒に叫びだしたいくらいの気分だった。気持ち悪い触られたくない止めろ消えろと心の中で何度も罵倒する。それを口に出さないのは、おそらく今の気分にまかせて声を出したなら恐らく隣近所にまで聞こえるほどの大きさで怒鳴り散らしてしまうだろうことが容易に想像できるからだ。
座敷に入った藤は、部屋の中を見回した。壁に張り付くように、背の高い本棚がいくつも並んでいる。小説から専門書、果ては絵本まで――特に題名を見もせず暇つぶしのために本をとにかく買い漁った結果の産物たちだ。そのうちの一冊を、やはり題名を確認しないまま手に取り、杖を床に置いてベッドに座る。安いベッドは負荷に、あっさりギシリと苦鳴を上げた。背中に張り付いているトーヤも藤の動きを先回りしてベッドにのぼったのだから当然だ。それでも、背中のモノのことは無視することにした。無視され続ければ、そのうち飽きるに違いないと判断してだ。会話を試みたところで埒があかないことは既に証明済みだ。
手に取った本は、古典の注釈本だった。ぱらぱらとめくり読む――が、背中のモノのせいでどうにも集中できない。トーヤは、今や背中に張り付くだけでは飽き足らず、頬を藤の背中に摺り寄せていた。身じろぎしてそれを無言で拒否するが、鈍感なのか無視しているのかトーヤは全く止めようとする気配すら見せない。仕方なく、ため息をつきながら本を傍らに置いた。もう一度息を大きく吸い、気持ちをフラットにする。
「……あんた、何がしたいんだ」
感情を抑えた声で訊ねると、トーヤの摺り寄る動きがピタリと止まった。どうやら、話を聴く気にはなったらしい。だが、いっかな返事は返って来ない。藤は質問を変えることにした。
「だいたい、何で俺を知ってる」
「……? だって、フジのことだから」
そう言って笑うのが、肩ごしの気配でわかる。まるで、当然であろうという口調で。虫唾が走る。
「……だから。何で俺のことをそんなに知っててしかもひっついてくんだよ包帯野郎」
今度の答えは、間髪入れないものだった。
「だってフジが好きだから」
――頭と胸が、ごちゃごちゃになって気を抜くと本当に叫んでしまいそうだ。声が、かすれる。
「……何だよそれ。俺、あんたなんか知らないし。意味わかんねぇ。なんで知り合いでもねぇのに俺を好きなんだよ電波」
「フジがフジだからだよ」
トーヤの口調は、あくまで穏やかだった。自明のことを、まるで聞き分けのない幼子に繰り返し説明するような口調だ。それに、苛立ちが倍加する。
「……ほんと何あんた。やめろよ馬鹿みてぇ。何でそんなこと言うんだよ気持ちわりい。ストーカーかよ」
「……。ストーカー?」
声に、少し困惑の響きが混ざる。単純に、言葉の意味がわからなくて鸚鵡返しをしたようだ。
「他人に付き纏ったり盗み見したりするやつのことだよ」
「ふーん。トーヤはストーカー?」
「こっちが聞いてんだよ。どうなんだ」
「んん……? トーヤはトーヤだよ」
トーヤの声からは困惑の色が消えなかった。とぼけているのであれば引っぱたいてでも問い詰めたいところだが、そういう様子でもない。尤も、顔が見えないので確証は持てないが。
「あっそ……」
それ以上会話をするのも面倒で、嘆息混じりに藤は会話を打ち切った。これだけ他人と話したのもかなり久しぶりな気がする。喉が渇き、藤は立ち上がり台所へと向かった。これもまた当然のごとく、背中にはトーヤが張り付いたままだ。右足に力が入らないところに背中に負荷がかかっているせいでバランスを崩しそうになりながら、なんとか台所に辿りつく。
湯を沸かし、茶を入れる。温かなものが胃に収まれば、少しは気持ちも落ち着くかもしれない。そんな楽観を自分に言い聞かせながら、藤は湯呑を持った――二つ。
(別に、これは気遣ってるとか歓迎しているとかじゃなくてだな。俺が美味く茶を飲みたいからだ。まあ、こいつも一応客になるわけだし)
客でもない人間を部屋にあげるという事態もなかなかぞっとしない状況なため、背中のモノの存在を無理矢理常識のカテゴリーに当て嵌める。そうでもしないと、この男の非常識さに自分の日常を侵食されてしまうような錯覚に陥りそうでもあった。
部屋に戻り、座りながらテーブルに二つの湯呑を置く。不安定な歩みのために途中で何度か茶をこぼしそうになったが、何とかそれは堪えた。自分は、手近に置いた方の湯呑を使うことにした。無言のトーヤは、首を動かして藤と自分に用意された湯呑とを交互に見ているようだった。そして、手をつけないまま首を傾げ、再び藤に摺り寄り始めた。茶には、手をつけようとしない。
「……離れろ気色悪い」
「……。……やだ」
答えた声は、やや弱々しい。もしかして落ち込んでいるのだろうかとも思うが、それはむしろチャンスだと思う。「知るか」と冷たく言葉を重ねる。
「茶のんでさっさと消えろ。二度と現れるな」
不意に、トーヤがしがみついてくる力が強くなった。大きく首を振るのが、感じられる。
「………トーヤは、フジと一緒にいる」
(――本当に、意味がわからねぇ……)
ヒトのことを好きだと言ったりこちらの都合も考えず一緒にいると言ったり、この男は一体何なのだ。それが、見も知らぬ相手に言う言葉や態度であろうか。得体が知れない、不気味――というより、意味不明過ぎて理解が追い付かない。何か目的があるのだろうかと考えれば、まだ納得のしようもあるが、自分にこんなに引っ付いて、一体何の益があるというのか。
「……何が目的だ?」
試しに訊いてみると、トーヤは少し前と同じように首を傾げたようだった。
「ん……? 目的? フジと一緒にいる事」
「だからその目的だ」
「……?」
なかなか話が進まないことには、段々と慣れてきた――そんなどうでもいいことを自覚しながら、藤は――彼なりに――辛抱強く言葉を重ねる。
「一緒にいる目的だ」
「……?? 一緒にいるのが、目的……」
小さい声で、本気で戸惑うような答えが返ってきた。だが、藤だってそんなことを言われても困る。
「………意味わかんねぇ。消えろ変質者」
藤の言葉に、トーヤはここにきてようやく思案するような素振りを見せた。藤のことを固く抱きしめてきていた細い腕からも、ようやく解放される。麻痺しかけていた嫌悪感も消え、ようやく全身から力が抜けるのを感じた。
(ようやく、帰るか……?)
「変質者」と言われたのが堪えたのだろうか。だがこれまで散々「ストーカー」だなんだと言われていても動じなかったことを考えると、やや唐突な印象を受ける。それとも、拒否され続けて諦めたのだろうか。
そんなことを考えていると、急に目の前が真っ暗になった。ほんの一瞬間パニックになりかけるが、何のことはない、トーヤが藤を目隠ししただけだった。それも、手で目を軽く覆うように、他愛のない方法で。
「……なんのつもりだ」
答えは、意外にあっさりと返ってきた。
「消えろって……。でも、トーヤは透明になれないから、フジに見えないようにしてみた」
「………」
あまりにも、単純過ぎる答えに、藤は呆れ返り、次いで何となく笑いたいような気分になった。実際、今自分の顔を鏡で見たら、半笑いを浮かべていることだろう。
「……阿呆か阿呆なんだな阿呆」
「……? トーヤだよ」
「“あほ”じゃなくて」と、あくまで真剣に、トーヤが言う。やや骨ばった手は藤の眼をふさいだままだ。真面目に遣り取りをするのも面倒になり、「もういい」と藤は告げた。
「放せ」
存外あっさりとトーヤは藤の眼から手を放した。その隙に、藤はトーヤに向き直り、その顔を見た。大きな隈を浮かべた、いかにも不健康そうな顔。総合的に観察すれば藤と同い歳くらいであろうに、表情のせいでやや幼く見える。大きめな造作の眼は、不安げに揺れながら藤を見ていた。それに、藤は何度目かになるため息を――深々と――吐いた。
「……好きにしろ。いたきゃいればいい。ただし――ひっつくな」
最後の一言に力を込めて、藤はそう言い放った。その意味を飲み込もうとしているのだろう、しばし間をあけてから、トーヤはこくりと頷いた。
「うん」
それは、藤がこれまで見たこの男の顔の中で、最も嬉しそうな笑顔だった。
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